藤田田物語③太宰治と三鷹で酒を酌み交わし…戦後を彩った天才達との交流
凡眼には見えず、心眼を開け、好機は常に眼前にあり
■世界を相手に商売する気概
藤田は東大法学部時代、日本の経済力を復興させるために、保守陣営から金を引き出し、「東大自治擁護連盟」を作り、戦後の混乱に乗じて勢力を急拡大していた共産党と戦った。東大では共産党指導者の徳田球一とやり合ったこともあった。徳田が「GHQの回し者」といえば、藤田は「マルキストの売国奴」とやり返した。藤田と共に共産党と戦った仲間には、高丘李昭(西友会長、日本チェーンストア協会会長)、熊平肇(熊平金庫社長・広島ロータリークラブ会長)、渥美俊一(日本ペガサスクラブチーフコンサルタント)がいた。
藤田には、東大を出て外交官になるという夢があった。しかし、GHQの通訳のアルバイトに精を出しているうちに、ユダヤ人の生き方に強く惹かれ始めた。というのも、ユダヤ人はGHQでは〝ジュウ〟(Jew)と吐き捨てるように呼び捨てにされながら、しかも兵隊の位は下士官や一兵卒クラスと低いのに、将校以上に優雅で贅沢な生活をしていたからだ。藤田が親しくなったウイルキンソン軍曹は、軍から支給される給料の他にサイドビジネスに金貸し業務を行ない、大儲けしていた。
ユダヤ人は実にたくましかった。敗戦の混乱と騒乱がうち続く中で、既存の権威や秩序、法律などあらゆる価値体系が崩壊し、生きていく精神的支柱が何もなくなっていくのに、ひとりユダヤ人だけはバイタリティにあふれていた。ユダヤ人は藤田がいう「金がなかったら何もできゃしないよ!」ということばをそのまま実践していた。時代が変わろうと、価値体系が崩壊しようと、最後に勝つのは金を持っている人間だということを、ユダヤ人は5000年以上におよぶ民族の盛衰・興亡の歴史の中で、身をもって学んでいた。それは、生きる方向を見失っていた藤田にとって、まさに新鮮な驚きであった。
一方、ユダヤ人は2か国語以上をあやつる〝語学の天才〟でもあった。藤田は、子どものころから、父・良輔に「2か国語以上はマスターしなさい。将来は世界を相手に商売する気概を持つのだ」といわれて育った。とはいえ日本人で日本語に加え、英語・ドイツ語など外国語2か国語以上マスターしている人など、めったにいなかった。
藤田は2か国語以上あやつり、世界を相手に商売する理想像をユダヤ人の中に発見したのである。ユダヤ人は、藤田に金儲けのコツを教えた。しかし、ユダヤ人から見た藤田にはひとつの欠点があった。それは、藤田の懐疑主義である。
ユダヤ人は「他人を信じずに、自分ひとりを信じようとする態度は悪くはないが、それが高じて他人のいうことをすべて疑ってかかることは、行動のエネルギーをそぎ、最後は無気力に陥ってしまうだけだ。それでは金儲けなど100年経ってもできない」と、藤田をさとした。藤田には思い当たるふしがあった。
藤田は、口では「人生はカネやでーッ!」といいながら、一方では日本の最高学府「東大法学部」卒の肩書きで、エリートコースを歩いてゆきたいという欲望があった。「できれば、外交官として世界に雄飛したい」という希望も捨てがたかった。そうすると、どうしても今の自分を〝仮の姿〟とみなしてしまい、金儲けに情熱を傾けることができなくなってしまう。そこに東大出の最大の弱点があるのだが、ユダヤ人は「藤田のそんなエリート根性には一銭の値打ちもない」と斬り捨てた。
こんな時期を経て藤田は、ユダヤ商法を見習うことになった。GHQのユダヤ人と組んで通訳の他にサイドビジネスを始めた。これがのちに、ハンドバッグやアクセサリーなどの高級雑貨を輸入販売する「藤田商店」へと結実していく。
この時代に藤田は、神田駅前で大道商い、すなわち露店商を経験している。真鍮(しん ちゅう)の指輪やアクセサリーなどを扱った。「物品を販売する以上、客が何を欲しがるのかを、自分の目で確かめたかった」からである。東大2年生のとき藤田は、GHQにいたユダヤ人の取り計らいで、過分な外貨割当てを受け取り、彼らの貿易チャネルに乗って、単身ヨーロッパに渡った。そこで高級アクセサリーなどを買い付けて帰国し、輸入販売業務をスタートさせた。
さて、はじめのほうでも触れたが、藤田が清水の舞台から飛び降りるような一大決心をして月々5万円の定期預金を開始したのが、1949(昭和24)年頃のことだ。この時期に藤田は準備を始め、50年(昭和25)4月、輸入販売の「藤田商店」を設立した。
同年6月には朝鮮戦争が勃発した。GHQで通訳の仕事をしていた藤田はこの情報を誰よりも早くつかんでいた。
最高司令官マッカーサーは「日本を反共の防波堤にする」と、これまでの占領政策を転換。同年7月、警察予備隊7万5000人を創設、海上保安庁8000人増員指令を出した。日本は再び事実上の軍隊を復活させたのである。
日本は朝鮮特需による好景気に沸き、戦後の経済復興を軌道に乗せようとしていた。
このような激動の時代に藤田は、100万円を目標に貯金を始めた。毎月定期的に5万円貯金することで、人生に対して何かふっきれていくものを感じたという。それは、東大法学部卒の〝権威〟とか、外交官になる〝夢〟とか、無気力の世界へと導く〝懐疑主義〟とか──そういった虚妄の世界とはまったく異なる堅実で確実な真実の世界であった。藤田は新しい実業の世界へ「心眼」が開けてゆくのを感じた。
藤田は1年8か月で「目標の100万円」を貯めた。これを機に藤田は、GHQの通訳の仕事を足掛け2年半経った、50年12月頃にはやめた。そして、学生実業家の道を志すことにした。一応腕試しのために官僚の最難関とされる大蔵省(現・財務省)の試験を受験、合格したが官僚になる気はさらさらなかった。
藤田は、51(昭和26)年3月、東大法学部政治学科を卒業すると、迷わず藤田商店の仕事に取り組んだ。東大法学部卒としては、まさに〝裸一貫〟、ゼロからのスタートであった。
このような当時の事情を勘案すれば、藤田がなぜ毎月5万円の定期預金をスタートし、唯一の拠り所としたのか、容易に理解できるだろう。
藤田は、自著『ユダヤの商法』で、ユダヤ人は徹底した現金主義で、銀行預金さえ信用しないと記している。一方で、ユダヤ人の蓄財法を紹介している。
〈ふくれた財布がすばらしいとはいえない。しかしカラの財布は最悪だ〉
〈金銭は機会を提供する〉
藤田は毎月5万円の定期貯金を続けることで、世界を相手にする「銀座のユダヤ商人」に脱皮する覚悟だった。